3太のADHDと不安障害闘病生活メモ

ADHDとGAD持ちお絵描きマンのチラシ裏メモ





幸せってなんだろな

 はい、タイトルそのままの意味です

 

 

ぼんやりと今日はやってみようかなと思った事をやってみたのですが、これは幸せなのか?…🤔とふと思ってしまったので書いてみました。

 


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そもそも幸せとは

 

 

幸せの定義ほど、曖昧というものは無いでしょう。

 

この人にとってこれが幸せというものが、別の人にとっては幸せではなかったりする。

 

私は数年前まで、欲しいものが必ず手に入るということが幸せと思っていましたが(今もその節はありますが)、それだけで片付くほど人の心や精神というものは簡単ではないようです。

 

 

何故『必要なものが揃っているのに苦しむ』のか

 

 

衣食住、そこに趣味が加われば、大概(最低限)のことは満たされていると筆者は思います。

 

人間、食べるもの・住む場所が1番苦しめられる原因になると思っているので(衣服も度がすぎれば辛さしかないですが、死ぬことはそうないので省いています)、これが満たされている上、趣味にお金をかけられるという環境は、一言で大雑把に纏めてしまえば『幸せ』になるのではないでしょうか。

 

しかし、筆者は今日ぼんやりと遠くに出て、ぼんやりとしたい事をし、それでも尚朝からずっと頭にチラつく焼けるような、喉が乾いて渇いて堪らないような苦しみを感じ続けています。

 

したい事を出来て何が不幸せなのか。

 

焦り、焦燥感。

 

背後から死神にでも追われているかのような不安さ。

 

恐怖。

 

自分は他人と同じ事が出来ているのか?

 

自分は怠けていないだろうか?

 

もちろん再三すぎることですが、私は発達障害(ADHD)と不安障害(GAD)からの重度のパニック障害が常に爆発するかもしれないという不安と戦うという闘病生活ではあります。

 

だが、それに甘えてしまっているのではないだろうか?

 

心の声がいつもそう囁きかけてきます。

 

実際、薬は日常生活を送れるという基準でなら、もう目いっぱい出されています(困ったことに飲み合わせの悪さもあります)。

 

薬を飲んで朝から外に出れば、それだけで眠気やふらつきが出たり、ひどい時は頭がぼんやりする状態が続きながら作業をしています。

 

ただ、心の声が『お前はそれに甘えてはしないか?』と隙がある度に囁きかけてきます。

 

違う。

そんなことは無い。

 

私はやっている。

やろうとしている。

 

ですが、1度周りを見てしまうと

 

『あの人は出来ているのにお前は出来ないのか』

 

『あの人は賞を取った。お前は』

 

『お前には何がある』

 

お前には何がある。

それは自分自身からの言葉なのでしょう。

 

周りと比較しなくてもいい。

 

友人にはハッキリとそう言えるのに、1番その言葉を受け止めきれないのは自分自身かもしれません。

 

怖いのです。

刻一刻と進む時間が。

 

私が1人で何も出来ない間に何かをなし遂げている知り合いが。

 

本当に、酷い時は丸一日横になって寝ているだけで、あれも、これも、そう考えているのに体は言うことを聞きません。

 

こんな役立たずの体など無駄ではないか。と自嘲しながらその日を過ごすことも多いです。

 

何が幸福なのか。

 

そう思いながら、それは心のゆとりこそが1番の幸福なのではと私は思います。

 

ゆとりは余裕がなければ生まれない。

 

つまり、先程述べたものの殆どを満たしつつ、困った際に頼れる先、吐き出せる先がある状態ではと勝手に思っています。

 

私もそれを求めてはいるのですが、周囲と自分自身がお前は、と追い詰めてきます。

 

周囲からは離れればいい。だが、自分自身はどうすれば良い?

 

障害をもってしまったことで負い目を感じている私の、今1番の議題がそれなのかも知れません。

 

 

 

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