3太のADHDと不安障害闘病生活メモ

ADHDとGAD持ちお絵描きマンのチラシ裏メモ





明日の自分は自分か


f:id:santa3memo:20190728193046j:image

 

 

眠ったあとの自分は自分なのか

 

 

これ良く哲学などで話題に出ると思うのですが、寝て起きたあとの自分は本当に寝る前の自分と同じなのかという疑問に襲われます。

 

そもそも、そういう話の鉄板なら、世界が数秒前に生まれて、今の自分という記憶を持たされただけだ。というのがよくありますね。

 

筆者は寝て起きて、今日も憂鬱だ…。と死んだ目をしていることが多いのですが、この自分も昨日の自分を引き継いでいる(のが理論的には当然です)と思うと嫌になります。

 

個人的には寝る=生命活動はしているが思考としては一時的な死を迎えている。という理論を持っています。

 


f:id:santa3memo:20190728193817j:image

 

思考をしていない肉体とは、生きていると言えるのか?

 

理論として、植物人間状態である人間は『生きています』。

 

しかし、真なる意味で生きる。というものは、自信に明確なる意思があることを指すのではないのでしょうか?

 

植物人間状態は、今の進歩した医療技術によって生かされている。という言葉が正しいのではと時折思います。(※そのような方々を乏しめる意味ではなく、筆者の考えの1つとして読んでください)

 

また、健康なる状態でも、そこに本人の何かしらの意思が存在しなければ、ただ生きていると言うだけで、真に生きている。とは言えないとこれまでの経験で思ってきています。

 

飯を食い、服を着替え、仕事をし、睡眠をとり……、これらは所詮生命活動の維持をしているに過ぎません。

 

仕事にしろ、生きるためには金が必要だ⇒働こう。というだけであって、金が降って湧く状態であれば自ら進んで働きたい。働かなければと思う人はそう居ないのではないでしょうか。

 

現に、お金があった上で隠居後が暇だという理由で働いている方にあったこともあります。

 

さて、話がかなり逸れましたが、目を閉じて自分という思考を1度捨てるという睡眠たる行為。

 

寝てしまった後の自分を、本当に自分と定義付けられるものは一体何なのでしょうか。

 

記憶、好きだったもの、好物、趣味、周囲…。

 

自分を自分たらしめているものは、自己だけでは完結出来ないのではとよく思ってしまいます。

 

恐らく自分の名前があったとして、生まれた時から現状まで一切呼ばれることがないまま新しい名前をさずかったとすれば、古い名前の自分は理論的な話ではなく、哲学的な意味では自分ではないのかもしれません。

 

よく漫画や映画でニックネームで呼ばれていた人物が本来の名前を知った時の反応を見ていると、そんな簡単にストンと胸に落ちるものでは無いのだろうなと、自分の立場では考えてしまいますね。

 

寝て起きた自分を自分だと改めて自覚できるのは、変わらない周りの風景、人物、環境、思考etc.....。

 

周囲による環境要因が多いのではないかと持論としては思っています。

 

だって、もしも寝て起きて周りが突然の荒野だったり、知らない人達や、聞き覚えのない言語で固められていたら、ここは?私は?そう問いかけたとしても、自分を自分と定義付けられるものは自分しかいないのですから、周りから『お前は〇〇だ』そう言い聞かされ続ければ、〇〇になってしまうのかも知れません。

 

そんな世界はSFだけで十分ですけどね(笑

 

さて、今日も夜はやってきます。

 

明日起きた時、明日も自分自身で居れるように願いたいものです。

 

今日もそんな少し人とはズレた考えを吐き出す散文でした。

 

 

↓やる気のためポチっと押してください↓ 

 ブログランキング・にほんブログ村へ

 知識・スキルの販売サイト【ココナラ】

 ココナラのクリエイターに依頼する

 イラストオーダーサービス【SKIMA】コミッション

 ペイントソフト CLIP STUDIO PAINT 無料体験版のダウンロード



プライバシーポリシー お問い合わせ